校長日記40   
社会教育に想う〜長崎県・草社の会に寄せて〜
 長崎県に、社会教育支援草社の会という組織がある。社会教育に携わった職員が、その後も社会教育に想いを寄せている、そのことだけでも温かいものを感じるのだが、組織を作って交流しているのだから羨ましい。副会長の武次寛さんとは長いお付き合いをいただいている。草社の会々報の編集長でもある武次さんから原稿執筆の依頼があった。会報冒頭の連続企画「社会教育に想う」の第6回目の原稿である。6月に会報が発行されたので、元の原稿をほぼそのままに館長日記40として再掲することにした。

 私と社会教育との関わりは、高校生の頃に手を染めた子ども会活動が入り口で、職業として社会教育の仕事をした期間もあるが、そうでない期間もある。仕事だったかどうかは別にして、自分自身の活動としては途切れることなく社会教育に関わってきた。私には社会教育に献身した公民館人のモデルがいた。当時の庄内村公民館の「主事さん」である。発館直後の公民館の館長は村長だった。「主事さん」は、課題があれば何時なんどきでも村長室に入ることができた。主事の直属の上司は村長だったのである。私は主事さんの薫陶を受けて子ども会活動に励んだ。主事さんは、後に庄内町教育委員会の教育長になられた。正平は、1983(昭和58)年4月、福岡県教育庁筑豊教育事務所社会教育主事を拝命する。故郷庄内町の派遣社会教育主事になったのである。その年、5泊7日の通学キャンプを始めた。この時から職業としての社会教育主事の時代に入る。派遣社会教育主事は5年で終わったのだが、2000(平成12)年3月に定年退職するまで17年間社会教育の仕事をさせてもらった。この間に、1989(平成元)年4月、庄内町立生活体験学校の生活棟・作業棟が竣工して、この時から6泊7日の日程で通学合宿を始めた。それも年間20回という、大変な質と量である。時に、正平49歳のことである。それ以来、私の社会教育活動は通学合宿というプログラムを通して行う子どもの生活体験活動がキーワードになった。定年を迎えて3年後に東和大学工学部に招かれることになった。大学では教職課程と社会教育主事課程の管理をすることになった。それまで正平には大学教員になろうなどという気持ちは全くなかった。一般に、へりくだって「浅学菲才」と言うが、正平の場合は文字通りの「浅学」と「菲才」のまま大学教員になった。気の毒だったのは講義を聞く羽目になった学生たちである。東和大学に勤め始めた翌年2008(平成20)年には、平成の大合併で庄内町は消えて飯塚市になった。生活体験学校は一大転換期を迎えた。市内22校(当時)を対象に通学合宿ができるはずもない。週末の2泊3日の短期合宿と6泊7日の通学合宿、2つを合わせて年間20回という合宿プログラムが始まる。東和大学に勤め始めた5年後、大学設置者の方針で東和大学は閉校することになった。これで終わりになるものと思っていたら、同じ設置者の経営になる純真短期大学食物栄養学科の栄養教諭養成課程の講義を仰せつかった。結局、純真短期大学に9年の長きにわたってお世話になった。14年もの間、大学教員の末席に連なったことになる。純真短期大学を退職して4年が過ぎたが、食育キャンプと称して今もって食物栄養学科の2年生の学生たちが1泊2日で食材生産体験の実習にやってくる(令和2年度はコロナ感染対応で短縮、中止もあったが)。退職して尚続く学生たちとの体験交流である。2015(平成27)年4月から、生活体験学校は飯塚市によって指定管理の対象施設になった。現在、生活体験学校はNPO法人体験教育研究会ドングリ(略称NPOドングリ、理事長正平辰男)が管理している。2017(平成29)年からは大学を退職したので生活体験学校に詰めている。2017(平成29)年6月からは、幼児の野外における生活体験活動支援を始めた。対象は飯塚市内にある幼稚園、保育園、こども園の幼児である。一番参加者の多いプログラムはサツマイモ掘りと石焼きイモ作りである。石焼きイモはドラム缶を改造した手製のイモ釜で焼く。これが人気沸騰、きわめて好評である。昨年度は1600人を超える幼児と引率者が生活体験活動に参加した。去年から活動分野を増やしたくて、敷地法面にクリ畑を設けて苗木20本を植えた。今年、ミカン苗も敷地内に8本植えた。養蜂を去年から始めたが、この時期4つの巣箱でニホンミツバチの養蜂活動に取り組んでいる。今年1回目の採蜜は7月末か遅くとも8月初めにはやってみたい。
 既に正平は80歳を超えた。烈士暮年(れっしぼねん) 壯心不已(そうしんやまず) の心境である。
  (令和3年7月29日)