校長日記9     
大屋根を作る
 平成27年度の台風襲来で手作りの屋根2か所が吹っ飛んだ。飯塚市教育委員会の手配で原型復旧が行われた。2か所の屋根はともに、台風が来なくても倒れそうなぐらい痛んでいたのだが、飛んだ部分のみ復旧してもらった。いっそのこと全部飛んでくれたら多少は使いやすい屋根になったかもしれないという風景である。原型復旧の後は、真新しい柱と梁で仕上げてある屋根、その続きに今にも倒れそうな梁と柱と赤さびだらけのトタンの屋根がくっついている。だから、そのままでは使いづらい。もっとも、この台風のおかげで2か所の屋根周辺の片付けが完了したし、大屋根を作ろうという意欲も出てきたので原型復旧のご利益は十分にあった。それまで「ペンキ小屋」と呼び習わしてきた小屋の前に続いている屋根の解体と延長は、年度が変わった平成28年4月16日から始めた。全てを新しく作るのに比べると相当の手間がかかるということが、仕事が進むにつれて次第に分かってきた。もっとも、初めの復旧工事にはなかったことをしたこと、すなわちトタンの下に合板を敷き詰めて胴縁を打ち、その上にトタンを打って屋根を延長したせいで手数が増えたことも原因の一つである。この合板一枚の断熱効果は大きい。手数と金をかけた効果である。5月14日には合板の打ち付けを完了した。合板の裏に期日と職員全員の氏名を書いて打ち付けた。ここまで仕上げてくると、東側(菜園)に向けて一間ほどの軒を出してみたくなった。「一間の軒を出してみたら?」と職員に意見を求めてみたら、「広い方がよい」と決まった。さらに、許可を得て動物小屋に向かって1間半の屋根の延長を計画した。この部分は開閉可能な扉付きのしっかりしたフェンス囲いである。これほどしっかりした「フェンス囲い」を何のために設置したのか、かなり以前のことで思い出せない。うろ覚えで自信はないが、中型犬を飼っていた時期があったので、あるいは犬の飼養のために設けられたものではなかったろうか?フェンスの取り外しは容易に進んだが、基礎の部分がブロックの2段積、それもセメントでしっかり固めてある。これを電動ピックで解体したが手ごわかった。さらにこのブロックの片付け場所を敷地南側の竹炭窯の延長予定地としたので、運搬が大変だった。少し抱えてみたが、体力貧弱な私には手も足も出ない。重機でも使うことになるかと思いきや、河中さんを中心に手作業で運んでしまったのには驚いた。6月24、25日(金・土)にかけての作業だった。大屋根延長の最後のトタン打ちは、7月3、4日(日・月)には、ほぼ完了した。4月16日から始めた「トタンはがし」から2か月半を費やして完成した酷暑と大雨にも耐える作業空間である。名称は、キャンプ場開設の苦闘の最中、雨天時の炊飯を可能にするために作りあげた屋根の名が「大屋根」であったことに由来する。キャンプ場の大屋根に使った資材は、古電柱50本余り、垂木92本、打ったトタンが110枚という、大屋根の名にふさわしい正に堂々たる屋根であった。有限会社本松通信工業(飯塚市伊川、代表取締役本松強三氏)の献身的な尽力があって出来上がったものである。新しい大屋根を見上げるとキャンプ場の「大屋根」が重なって思い出される。あの時も嬉しかったが、今回もまた嬉しさが格別にこみ上げてくる。あの時もお金がなくて苦労したが、今回もお金があるから思い立ったわけではない。どうしても必要だから作ろうと思い立ったのである。あの時も大勢の人に手を貸してもらったが、今回も全く同様である。今回は非常勤職員の河中利通さん、祝原政弘さんを中心に職員の総力をあげて取り組んだ。7月7日(木)には長い間手を入れてなかった電気の配線をし直してもらって、中古ながら蛍光灯が点灯した。これには再び本松通信工業のお世話になった。大屋根の下に立って屋根裏を見上げると生活体験学校のために大汗を流してくださった大勢の人々の名前と顔が浮かんでくる。同時に、今後、この屋根の下で繰り広げられるであろう様々な体験活動の場面が脳裏に浮かんでくる。大屋根の下に立つ、最も幸せな時間である。
(飯塚市庄内生活体験学校々長、平成28年7月23日)