校長日記7
子ども食堂を開けるか?
 
 困っている子どものための「子ども食堂」を開こうではないかという議論を始めたのは平成27年の9月頃だった。「子ども食堂」は、生活体験学校の核心の事業である合宿事業とは違う事業である。しかし、満足に食事もできない子どものために「子ども食堂」を開くことは、NPOドングリとしては取り組む価値のある事業である。新たな事業を企画するのだから市教育委員会生涯学習課に知っておいてもらうことは必要であろうかと思った。そこで調整会議に、「子ども食堂」の開設計画を初めて持ち出したのが平成27年10月のことだった。調整会議は生涯学習課とNPOドングリの情報共有のために月1回開かれる。この会議があるので行政と指定管理者であるNPOドングリの日常的な連携が保たれている。「子ども食堂」の開設が難しいのは、困っている子どもに「子ども食堂」の開設を知らせる方法である。チラシを作るとしても、「困っている子ども集まれ」だけで伝わるかどうか?仮に伝わるとして、どんな方法でどの範囲の子どもに配るかという具合に考えていくと、事は入り口でハタと止まってしまう。次には、生活体験学校の場所が場所だけに歩いてやってくるには便利な所に位置していない。かといって、NPOドングリが送迎をする手段を持っているわけではない。「広報」と「送迎」の二つの困難、これだけで実施は十分に難しい。あれこれ考えているうちに現役のころ(福岡県教育行政の社会教育の仕事をやっていた頃)、文部省が初めて予算を取って実施した不登校の子どものための体験活動に取り組んだ当時の様子を思い出した。今と違って補助金行政盛んな時代のこと、文部省からは福岡県に九州で最大規模の事業実施を期待される。この事業に限ったことではない、あらゆる事業について福岡県は九州最大の事業実施が当然のこととされていた。不登校という言葉自体が今のように人の口の端に上ることが少なかった時代である。どうやって不登校の子どもを集めるか?集めた子どもにどんなプログラムを提供すべきか、それこそ入り口から先立つのは、「ためらい」ばかりだった。この事業を主管したのは、私の記憶に間違いがなければ県立社会教育総合センターだった。私などは大して苦労をする立場に無かったのだが、社教センター担当職員の苦労は大変だった。学校に不登校の子どもを集めてもらうと言っても、学校がそう簡単に応じてくれるわけはない。多くは、「うちには不登校の子どもはいません」と言われる方が多い。他の事業のようにチラシを作って配るなどという常套手段が使えないのである。多くは口コミ、人づて頼み、人海戦術である。どうにか公募定員に近い子どもを集めることができたようなことだった。初めての「不登校プログラム」も「子ども食堂」も入り口が難しい点では共通している。
「子ども食堂」を言葉で説明するだけでは広げられない。何はともあれ文字表現が必要だろうとチラシを作ることにした。文案ができてみればきれいなチラシが良い、というので業者に頼むことにした。年が明けて1月11日、きれいに仕上がったチラシ300枚が届いた。翌1月12日には市内小学校の校長会が開かれるというので、できれば完成したチラシを見てもらえるのではと思ったりもしたが、そうはいかなかった。もっとも、「子ども食堂」の取り組みは教育行政の範囲外の仕事であって、これに関して校長さん方にリアクションがあるとは思えない。つまりは、参考までに情報提供をするという程度のことだったが、それもせずに終わった。このチラシは校長会に先立って開かれた調整会議において、行政を通じて配ることは難しいということが分かっていた。もともと、難しい話だったのだからチラシを活かして使う方法を考えるしかない。チラシの右肩に「困っている子どものための」という一行をテプラ―で印刷して貼り付けることにした。後は手配り、口コミで広げるしかない。チラシが届いた11日(月)、その日のうちに「子ども食堂」の調理の講師をお願いしている藻形陸夫さんに届けて、この間の経過も話して協力をお願いした。藻形さんは長年プロの調理師をしてきた人である。それだけではなく、主任児童委員もしておられる。加えて、平成27年度からは地元自治会の会長もしてあるという超多忙な方である。藻形さんによれば近所にも「子ども食堂」に参加させたい子どもがいるという。チラシに印刷している最初の実施日は2月20日(土)である。実施日が1ヶ月以上も先のことで、今からチラシを子どもに配るというのは早過ぎる。そんなに先の話にしないで、もっと早く実施できないかと考えた。1月の日程を見れば、直近の体験合宿を1月16・17日(土・日)に実施する予定になっている。この体験合宿に希望者があれば臨時の「子ども食堂」として参加させたいと思った。15日(金)に再び藻形さん宅を訪ねて相談を持ちかけた。一方で、同じ15日(金)に出勤していた非常勤職員の河中さんに出来上がったチラシのことなどを話したところ、そんな計画があるなら自家用の玄米を持ってきましょうと言ってくれた。翌16日の10時頃には玄米30s2袋、つまり1俵の米が生活体験学校の生活文化交流センターに積まれていた。それらしい人の声もしなかったが、積まれた米1俵が目に入ってきた。すぐに河中さんにお礼の電話を入れた。藻形さんからもたらされた「近所にも『子ども食堂』に参加させたい子どもがいる」という情報と河中さんからいただいた玄米1俵は、原和也君をはじめ職員の子ども食堂への取り組み意欲を刺激した。私も17日(日)、9:00に電話して藻形さん宅を訪ねた。藻形さんは日曜日の、それも朝からの私の訪問に嫌な顔もしないで「子ども食堂」に参加させたい子どもの家庭を二度も訪問してくれた。結果、11時半ころ、小学校2年生と6歳の子ども2人を藻形さんが自分の車に乗せて連れてきてくれた。その時刻、合宿中の子ども達はピザ焼きのトッピングを終わってピザ窯で焼き始めようという状況だった。この2人は生活体験学校に来たのは初めてだという。2人の子どもをピザ窯の前に連れて行った。次々に焼き始めるピザを見ながら、焼き上がったピザを生活棟に運んできて会食準備が進む。私は急遽、職員の黒葛原志保子さん、永渕美法さんの2人に米3合を炊いてもらうように頼んだ。炊いた飯は塩つけ握り飯にして、お持ち帰り用にしてもらった。原和也君が余分にピザを焼いてくれたので、帰りに5人分のピザを持たせた。2人は合宿の子どもと一緒に掃除に加わった後、藻形さんの車で送ってもらって帰っていった。藻形さんは児童委員をしていて、かつ地元の区長である。いわば地元世話役の代表的な存在である。その藻形さんでも、子どもの誰にでも声をかけるというのは難しい。我々が声をかけて子どもを「子ども食堂」に連れてこようといっても、保護者からは「余計なお世話だ」と言われないとも限らない。「子ども食堂」が困っている子どもに認められて支持を得られるまでにはまだまだ曲折があるだろう。
1月24日(日)に予定した生活体験塾は雪のため一週間延期した。この日はホダギの玉切りとコマ打ちをする計画だったが記録的な大雪のため30日(土)に実施することになった。雪は25日(月)まで2日間降り続いた。車を走らせることもできず自宅で呻吟した。その時間の長さをこらえきれずに、このエッセイを書いた。              
(飯塚市庄内生活体験学校々長、平成28年1月25日)